宗教学を専攻しているというギリシャ人の留学生と話す機会があった。彼は25歳の優秀な学生で、母国語以外に5ヶ国語を話すという。日本語も、漢字の読み書きも含めてかなり堪能だった。
風水についても、宗教として学んだという。おれの風水についての認識は、タオイズムの実践的技能というものだったので、風水は宗教ではないのではと尋ねたところ、宗教というものの定義はあいまいだから、と言う。正直なところ、この回答には同意できない。錬金術を一般に宗教とは呼ぶまい。しかし宗教学という学問の範疇がそうなっているのであれば、仕方ない。
むしろ思ったのは、逆に、われわれがふだん宗教だと受け止めているものが、当事者にとってはア・プリオリに存在する万物の根本であるかもしれない、ということ。まあ、その構造を客観的に言い表すのが「宗教」という言葉なのだろうから、あたりまえなのだけれど。自分も含めて殆どの日本人は、冠婚葬祭の様式くらいにしか宗教の意義を認めていないが、世界の大半にとっては、そうではないのであろう。
進化論を教えることを違法とするアメリカの州があったり、旧約聖書の世界観を信じて疑わない原理主義者のことを人は揶揄したりもするけれど、当事者にとってはそれらは宗教や思想という言葉で語るものではないのだ。
われわれが宗教という言葉で言い表すところのドグマを拠り所として成り立っている国家が存在している以上、国家間の相互理解が少しでも可能だなどというのは全くの幻想。個人レベルにおいても、同様。