ジョン・C・ライト『ゴールデン・エイジ1 幻覚のラビリンス』

ゴールデン・エイジ〈1〉幻覚のラビリンス (ハヤカワ文庫SF)

ゴールデン・エイジ〈1〉幻覚のラビリンス (ハヤカワ文庫SF)

カバー絵よし(アニメ絵じゃない)、翻訳者よし(嶋田洋一じゃない)、解説者よし(「SF評論家」堺三保じゃない)と、指さし確認までして購入したのに。
副題のあたりが特にイヤな予感を感じさせたのだけど、某所で「作者がぶっ飛んでる」という評がされていたので読んでみたわけだが。これは今までに読んだSF小説の中でも、間違いなく五本の指に入るつまらなさだ。
人間が事実上の不死を獲得した遠い未来で、数百年ぶんの記憶が失われていることに気づいた主人公は、失われた記憶を追い求める…というあらすじは、まあ魅力的に思える。だが、このテーマだけならこんなにボリューム(600ページ超)はいらない。なのになぜこんなにページ数が多いかというと、この作者はやたらとディテールに凝るのと、法廷シーンを書くのがお好きらしいからだ。だがそのディテールがまたつまらなくて、例えば主人公の妻というか元妻が仮想世界コンテストに参加するのだが、主観時間で数十年も続くというそのコンテストの描写が、目新しさもない上に本筋に何の関係もないままえんえんと続くのだ。法廷シーンも、かなりのページ数をだらだらと費やして中盤と終盤とに2度も出てくる。そこでやりとりされる会話も、かなりご都合主義的だし、スリルもへったくれもない。
遠未来の話だからか、やたらと世界観の作り込みはされているのだが、それがまた論理的でなければセンスもない。この小説の時代は「第七精神構造紀」で、現在の21世紀は「第三精神構造紀」と呼ばれているのだが、それだけの大きな精神の変化を経たわりには、登場人物のメンタリティは現代人とあまり変わらない。どころか、前述の主人公の妻などは現代の基準にしてもむしろ頭が悪すぎるだろうという発言を繰り返すのだ。
SF的なガジェットとして、「原子量九〇〇を超え」る物質でできた防護服が登場する。サミュエル・R・ディレイニーの『ノヴァ (ハヤカワ文庫SF)』にも数百番台の元素番号をもつ元素が出てくるけど、文脈からすると、これのパロディでもオマージュでもないらしい。SFセンス的には1960年代なみということですな。しかもこの物質は、恒星の内部にあっても破壊されないというのだけど、じゃあどうやって防護服に加工したというのだろう。また、例によって本筋とは関係ない作者ひとりよがりのエピソードの中で「ウイルス細胞」という言葉が出てくるのだが、ここに至っては、作者の正気を半ば疑ってしまった。
本編すべてこういう感じなので、さすがにイーガンの新作が出たときにはそちらを優先した。再開してからは、滅多にしないことなのだが、全くの斜め読みでスルーした。一応、最後のほうで主人公が軌道エレベータから徒歩で降りてくるところは、ほんの少しだけ面白かったと言っておこう。
この作品は三部作の一作目だが、もともとはそれら三部作は一冊で刊行される予定だったという。残りの二作を読むことはないだろうが、余計なディテールを削ってその密度で書かれていたなら、これほどつまらなくはなかったかもしれない。