茂木健一郎『クオリア入門』

クオリア入門―心が脳を感じるとき (ちくま学芸文庫)

クオリア入門―心が脳を感じるとき (ちくま学芸文庫)

クオリア」という言葉は耳にしたことがあるものの、その意味するところがよくわからなかったので読んでみた。
けどこの本を読む限りでは、クオリアは、少なくとも「まだ」科学じゃあないと思う。
クオリアというのは「…感覚を特徴づける様々なユニークで鮮明な質感」であり「これ以上分割できないとう私たちの心の中の表象の構成要素」だという。この説明だけだとクオリアというのは、心が感じる質感にこだわるあまり新しい言葉を持ち出したにすぎないように聞こえてしまうが、本書の主張を全て読んでもその第一印象は変わらない。
それに、クオリアの性質は社会的、文化的な文脈によって変化するというのは誤解だと断じているけど、これには納得できない。著者はよく「薔薇のクオリア」という例を引き合いにだすが、薔薇を知らない社会も文化も現実に存在することをどう説明するのだろう。薔薇を、花、さらには植物の器官の一部、というように還元したもののクオリア、というように置き換えるなら話は別だが。
クオリアというのは、意識あるいは主観性と、ニューロンの反応選択性との間の、いわば構造主義と還元主義との溝を埋めるために無理やり導入した装置以上のものであるとは思えない。著者はことあるごとに「マッハの原理」を引き合いに出すが、ならばこちらは「オッカムの剃刀」を適用してみようか。このようなあいまいな存在は切り捨てたほうが、議論が簡単になるのではないのか。
また、信号がシナプス間を伝達するのに経過する時間は意識されないというが、そりゃそうだ、というツッコミはおいておいて、この事実を説明するのに相対性理論を持ち出すのもどうかと思う。光速度で運動する光自身にとっての固有時はゼロになるということになぞらえているのだが、そもそも基礎となる理屈が異なるのに、結果が同じだからという理由で一緒にしちゃあまずいだろう。
この著者は文章があまり上手ではないようで、「…みたいな感じ」とか「…というニュアンス」のような非常に抽象的な言い回しが多い。また、これは邪推かもしれないのだが、著者は自らの主張に瑕疵があることに気がついているフシがあって、実はクオリアなんて持ち出さなくても意識を説明することは可能じゃないの?という帰結に達するのを避ける方向に誘導しているように思えてしまう。そういう意味では、この本は科学というよりはむしろ政治的だ。
本書の中盤以降では、「ポインタ」とか「アフォーダンス」とかが出てきて、クオリアはどこへ行った?という感じになるのだが、最後のほうでは著者もかなりトーンダウンして、クオリア至上主義ではいかん、みたいな論調になってしまう。これは見事なマッチポンプ
読むのに時間がかかったわりには、得たものはとても少ない本だった。