マイケル・シェイボン『ユダヤ警官同盟』

ユダヤ警官同盟〈上〉 (新潮文庫)

ユダヤ警官同盟〈上〉 (新潮文庫)

ユダヤ警官同盟〈下〉 (新潮文庫)

ユダヤ警官同盟〈下〉 (新潮文庫)

ヒューゴー、ネビュラ、ローカスのトリプルクラウンとのことだが、売り文句にはSFという言葉はあまり出てこない。
S-Fマガジンの2009年3月号で簡単な紹介文を読んでいたのでこの小説が歴史改変ものであるという予備知識はあったのだが、言われなければ気がつくまでにしばらくかかったかもしれない。イスラエルは建国早々(たぶん)第一次中東戦争に敗れており、ユダヤ人は三度目の離散を経験している。たどりついたのはアラスカのシトカ特別区で、以来、現在とほぼ同じ年代まで存続しているが、数ヶ月後に特別区は廃止されるという設定。そのシトカは人口数百万の大都市で過去には万博も開催されたことになっているし、ベルリンには核兵器が使用されたし、満州国もまだ存在している。つまり第二次大戦の前後で、歴史が枝分かれしたことになる。一方で、この小説ではチェスが重要なキーワードになっているのだが、言及されるチェスの名人などはざっと調べたところ実在した人達らしいし、エピソードも実際にあったことのようだ。また、シトカに住むユダヤ人と、アラスカの他の地域に住む先住民との関係が、現在のパレスチナ問題と対比している。
話の発端はあるホテルでの殺人事件なのだが、その被害者はユダヤ世界ではツァデク・ハ-ドールと呼ばれる、メシア候補者ともいうべきカリスマであり、またチェスの天才でもあった。この殺人事件にたまたま巻き込まれたのが、数年前に離婚して今はすっかりやさぐれてしまった主人公の中年刑事。刑事としては優秀ではあるが、別れた元妻は今や彼の上司になっている。この殺人事件の謎を解くのが、基本的なストーリーとなっている。しかし謎といっても、密室だったりトリックがあるわけではなく、この改変されたユダヤ社会特有の異質さや、主人公達の特殊な生い立ちなどが絡むところが見どころ。また、やはりチェスも大いに関係してくるし、後半は意外な陰謀まで明らかになる。その過程で、主人公の周囲にいるごく普通で平凡な人物達が関係していることがわかってくるのだけど、丁寧に伏線が張られているとはいえ、陰謀自体が大きすぎるので、バランス的な危うさを感じた。
ハードボイルド調の文体と過剰にニヒリスティックなブラック・ユーモアに溢れた描写は、とても面白い。ユダヤ教に関しては、たまたま数年前に『ユダヤ教の本―旧約聖書が告げるメシア登場の日 (NEW SIGHT MOOK Books Esoterica 13号)』を読んでいたので、まあなんとなく雰囲気はわかった。ただ、そもそも歴史改変ものであることの意味がよくわからない。数千年も砂漠を彷徨ったりヨーロッパでちりぢりになっていたユダヤ人が行き着いたのが厳寒のアラスカであることや、ユダヤ教の戒律を現代社会にすり合わせるためにとる苦肉の策など、アイロニカルな視点を導入することの面白みというのはわかる。だがそのような世界観を構築することや、チェスという装置を導入することの文学的意味が見いだせないのだ。これについてはもう少し考えてみるが、解説にあるように、見方によってはSF的ともいえるユダヤ人という存在、またユダヤ人に限らず、民族としての現代的なアイデンティティのあり方といった観点は、有益かもしれない。ちなみに、上述のようにユダヤ教の描写が多く出てくるとはいえ、カバラなどの体系化・通俗化された神秘主義に関しては慎重に言及が避けられているという印象があるのだが、この点にも注目すべきかもしれない。
ところで、この小説は映画化が決まっているそうだが、はたしてこの世界観を映画で見せられても楽しめるだろうか。アラスカに住むユダヤ人という時点で、多くの観客は置いてけぼりになってしまいそうな気がする。