うえお久光『紫色のクオリア』

紫色のクオリア (電撃文庫)

紫色のクオリア (電撃文庫)

最近ラノベばっかり読んでいるように見えるけど、きっと気のせい。
自分以外の人間がすべてロボットに見える少女、という設定は面白い。題名にも使われている「クオリア」はそのような現象的意識のことであるという大ざっぱな捉え方だけしておけばよくて、モジャモジャ頭のノー科学者とか、余計なことは考えない。
その少女(毬井ゆかり)の主観では、親友である主人公(波濤マナブ)や他の友人たちもやはりロボットなので、「故障」しても「修理」をすれば直る。幼なじみが大けがをしたときにジャングルジムの鉄骨を用いて修理を施したために、その幼なじみとは険悪な仲になってしまっている。まあその幼なじみからすれば、自分が即物的な機械としか認識されていなかったというのはショックなことなのだろう。しかし後に、「人間が肉袋にしか見えない」というバラバラ殺人犯との対決において、人間がロボットと等価だからといって魂を持たないわけではない、というゆかりの倫理観が表明されている。実際ゆかりは他の人間をまるで機械のように扱っているわけでは決してなく、むしろ「対人」関係で悩んでいるくらいなのだ。その上でゆかりの主観においては、彼女以外の人間からはロボットと認識される存在であっても自律的な行動をとることができるのだというくだりは、SFとしても面白い。
中盤からは、そのような主観と客観との関係についての考察から、量子力学に関する議論に発展する。だがクオリアが(実体はどうあれ)目に見えるものの本質を規定するのだからという理由で、量子力学観測問題に決着をつけようというのは、やはり無理がある。ペンローズの量子脳理論まで出てくるので、ちょっと笑ってしまった。
ゆかりはその能力を利用しようとする組織によって殺されてしまうのだが、マナブは自分の発言がゆかりを結果的にそのような状況に置くことになってしまったのを後悔することになる。だがマナブは先の量子力学に関する議論から、ゆかりを救う方法があることに気付く。このときの、ゆかりを助けようとするマナブの行動をフェルマーの原理にたとえて説明するところがとても効果的。また、別な平行世界に存在する「自分」と干渉したり、観測問題を逆手にとって過去の事象を改変して「トライ&エラー」によりマナブを救おうとするのも、徒労に終わることは予定調和的に明らかなだけに、なんとも物悲しい。
とまあ、イーガンやチャンの作品をどうしても連想してしまうが、作品のベクトルはあまりハードな方を向いていないし、むしろ円城塔Self‐Reference ENGINE (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)』やエフィンジャー「シュレーディンガーの子猫」の雰囲気に近いと感じた。
ところで、前述の組織の名前を「ジョウント」といい、そこから派遣されてきた留学生の名前は「アリス・フォイル」というのだけど、悪ノリ?オマージュにしても、ワイドスクリーン・バロック風味というのを除けばベスターとの類似点はあまりないし、アリスよりもむしろマナブのほうがガリー・フォイルのキャラクターに近いと思う。
序盤で、ゆかりは「人体が水に浮くのが信じられず、自分の防水加工に信用が置けず、どうしても浸水を考えてしまい」一人で風呂に入れない、という記述がある。しかし、ロボットに見えるのはゆかり本人以外の人間ではなかったのか。全体的に文章や構成にも稚拙さが目立つし、そういう細かいところがやや残念ではある。