ダン・シモンズ『イリアム』

イリアム (海外SFノヴェルズ)

イリアム (海外SFノヴェルズ)

どんな内容かもほとんどわからないし批評や感想も読んでいないのに、面白いということがあらかじめ約束されている小説というのはあまりないが、この『イリアム』はまさにそうだ。海外SFノヴェルズ、翻訳は酒井昭伸、表紙は生頼範義で、これ以外にはないといういつもの布陣。発売日に欲しかったので、今回初めてハヤカワオンラインで買ってみた。
仕事が忙しい時期だったのだが、それでも必ず毎日一時間でも読むようにしていた。この間に何度か出張があったが、さすがにこの重たい本をもって移動するのは難儀なので家に置いてきたのだが、宿泊先では読みたくてウズウズしていた。数日あった夏休みも、ほとんどこれを読んでいたと言っても過言ではない。
それでも読み終わるのにほぼ一ヶ月もかかったのは、元ネタである『イーリアス』と本書のかかわりや、舞台となる火星の地理などを把握しつつ、字面でなんとなくはわかるけれども初めて目にするような難しい漢字や単語などを全て調べ、それらの成果を自作のXMLに書きとめながら読む、ということを自ら課していたからであった。主に参考にしたサイトは以下のとおり。

Google Mars
イリアス - Wikipedia
古典ギリシア語事始・忙しい人の為の『イーリアス』
古典ギリシア語事始・忙しい人の為の『オデュッセイア』

欧米では『イーリアス』をはじめギリシア神話は一般教養の部類に入るらしく、半ば常識らしい。だがこちらはそれらを体系的に読んだわけではないので、非常に心もとなかったのだが、今までに読んだ一部の漫画がたいへん役に立った。吾妻ひでお『オリンポスのポロン』に、山岸凉子の「黒のヘレネー」や「キルケー」といった、一連のギリシア神話ものだ。
一方、引用が頻繁に登場するシェイクスピアについては、もう何も知らないといっていいくらいだ。特に『テンペスト』からの引用が多いらしいのだが、これについては適宜ググって対応した。


物語は3つのパートからなる。


二十~二十一世紀に生きた歴史学の教授トーマス・ホッケンベリーが神の技によって蘇生させられ、トロイア戦争を実況する。トロイアと、神々のおわすオリュンポスとの間は、量子テレポーテーション(QT)で移動することができる。
神々とは、どうやら本当にギリシア神話に登場する神々であるらしく、彼らの言動もそれを裏づけている。
本書で唯一、ホッケンベリーの一人称で語られるパート。

  • 地球


今から数千年後の地球。<古典的人類>が、下僕やヴォイニックスという謎の生物の庇護のもとに飼い殺しにさせられている。
彼らには二十年ごとに<蘇生院>で若返りの処置が施される。それは百歳になるまで繰り返され、その後は軌道上にあるリングにポストヒューマンとして転生する(と彼らは信じている)。
なお、百歳になるまでに不慮の事故で死んでしまっても、<蘇生院>で生き返ることができる。


イオに住むバイオメカニクス生物(モラヴェック)であるマーンムートとイオのオルフが、他の2体のモラヴェックとともに特命を受けて火星への旅に出る。
火星に到着するや、神の攻撃を受けて他の2体は死んでしまう。だが、マーンムートとイオのオルフは、LGM(緑のこびと(リトル・グリーン・メン))の助けを借り、目標であるテラフォーミングされたオリュンポス火山にたどり着く。


マーンムート、イオのオルフとホッケンベリーはやがて火星で合流し、その後はQTで火星と地球を行ったり来たりするようになる。ただ、火星の舞台はやはり現在から数千年後かと思われるものの、地球ではトロイア戦争のまっただ中、つまり紀元前十二世紀ごろだ。このトロイア戦争は、未来におけるシミュレーションなどではなく、本当に古代の地球で起きているらしい。したがって、この世界におけるQTとは、空間だけではなく時間までも移動できるテクノロジーであるらしい。もっとも、このトロイア戦争が「実際の」トロイア戦争であるという保証はなく、いわゆる平行世界のできごととも違うとほのめかされてもいるので、違っているかもしれない。
トロイア戦争では、オリュンポスからQTしてきたギリシア神話の神々が、時間の流れをいじったりナノテク装置を戦士にドーピングしたりして戦争に干渉している。ホッケンベリーは『イーリアス』その他の物語でこの戦争の趨勢を熟知しているが、神々はそうではないらしい。強大な力を駆使して人間の命をもてあそぶ神々に愛想を尽かしたホッケンベリーは、モラヴェックと協力し、『イーリアス』の戦士たちを巻き込んで、神々に戦いを挑む。


(トロイア戦争ではない)地球パートでは、ウェルズの『タイムマシン』に登場するイーロイ呼ばわりされるほどに腑抜けた<古典的人類>の姿が描かれる。特にディーマンは、いかにも現代っ子というか、未来っ子という感じで野外で用も足せないほどナイーブな、自他共に認める女たらし。
そこに、この時代の<古典的人類>にしては骨があり、とっくに識字能力を失った人々の中にあって自力で文字が読めるようにまでなった、百歳を目前に控えたハーマンが現れる。さらに、腑抜ける前の人類の生き残りの老婆サヴィと出会い、軌道上にあるポストヒューマンの施設への冒険に出ることになる。
サヴィはそこで怪物のキャリバンに殺されてしまうのだが、ディーマンはものすごい学習能力と適応能力を発揮し、ハーマン以上の活躍をして<蘇生院>を破壊し地球に帰還する。そして彼らも、ポストヒューマンもしくはさらに強力な神々に対する戦いを予感する。


舞台設定だけ読んで、この地球というのは、『ハイペリオン』で放置されたままになっている、リイ・ハントやシュライクに贄にされていた人々が踏み込んだ地球ではないかと予想していた。実際にはそういう描写はなかったが、どうなのだろう。
ハイペリオン』といえば、似たような表現やガジェットが登場する。非常に深くて幅の狭い峡谷などでは昼でも空に星が見える(「大峡谷」<大西洋分海道>)、飛行機のようには密閉されていない飛行装置(「ホーキング絨毯」「ソニー」)などだ。こういうのがよほど好きなのだろう。「全裸で泳いで行って、ポケットにビスケットを入れて帰ってきた」という『ロビンソン・クルーソー』からの意地悪な引用も、『エンディミオン』にあったように思う(ただし、シモンズ自身も『エンディミオンの覚醒』で同じ間違いをしている。怪我をしたロールの頭は無毛なはずだが、アイネイアーは彼の「髪を梳きあげ」るのだ)。
マーンムートがまた魅力的で、身長は1メートルで時には4足歩行もするという、ビジュアル的にも愛らしいキャラクターで、映画のほうの『銀河ヒッチハイクガイド』のマーヴィンを思い浮かべながら読んでいた。この、ロボットでもサイボーグでもない、生体部品を持った「バイオメカニクス生物」に、「アシモフ」でも「(ノーバート)ウィナー」もしくは「テューリング」でもなく、「モラヴェック」と名付けるあたりがいかにもシモンズのセンスだと思う。
トリックなのかミスなのか判断できいところが何ヶ所かある。一例を挙げると、地球パートで、<古典的人類>の女性は一生に一度だけ子供を産むという。ところが、人口は全世界で百万人に保たれているというのだ。男女比が同じだとすると、人口は指数関数的に減少して数十世代で絶滅するはずだ。<古典的人類>はそんなことにも気づかないほど知性が衰えているのだろうか。
神々のおわすオリュンポスが火星にあるというのは、本書の紹介文にも書いてあることだが、考えてみればこれはハヤカワの勇み足ではないのか。太陽が小さいという描写がホッケンベリーによってなされるものの、当のホッケンベリーでさえ、マーンムートたちに会うまではそこが火星だとは気づかなかったのだ。マーンムートたちが火星に到着したときに、空飛ぶ馬車を駆るゼウスが現れるが、ここで初めてオリュンポスとは火星の火山であることが判明してびっくり、というギミックを台無しにしてくれちゃったのでは。
マーンムートたちが火星を旅する場面では、Google Marsがとても役に立った。高度によって色分けされたデフォルトの表示は、テラフォーミングされて海ができた火星の地図そのものだ。登場する地名は全て実在の火星のものなので、地名を検索しながら読み進めるとものすごく臨場感が味わえた。つくづく、いい時代になったものだなあ。
ところで、サヴィは本当に死んだのだろうか。なんとなく、生きているような気がするのだが。
そしてこれはたぶんはずれだが、ホッケンベリーはその後ホメロスになるのではないだろうか。ホッケンベリー、トーマス→ホ…マ…ス→ホメロス。というのは冗談にしても、この世界に一人残されて語り部となるというのは、彼らしいと思うのだが。


もちろんここには書ききれないほどの多くの謎が残され、風呂敷は広げるだけ広げられているわけだが、続編の『オリュンポス』でその風呂敷は見事に畳まれることは、今までの経緯からみて間違いない。噂では来年にも出るらしいが、もう待ちきれません。