J・G・バラード『クラッシュ』

クラッシュ (創元SF文庫)

クラッシュ (創元SF文庫)

意外にも、文庫化は初めてだそうだ。そういや、元はペヨトル工房から出てたんだっけ。
バラードは、20年くらい前に『ハイ-ライズ』で挫折して以来、読んでいない。クローネンバーグの映画も観ていない。ダメじゃん。やっぱり相性が悪いのか、ページ数が少ないわりには、読むのにかなり時間がかかった。
著者による序文には、この小説はテクノロジーに基づいたポルノグラフィーである、というような趣旨のことが書いてある。ここでまず、ちょっとひっかかってしまった。『クラッシュ』が書かれたのは1973年だが、T型フォードの時代ならいざ知らず、すでに産業として確立しており大量消費の対象となっていた自動車を「テクノロジー」と呼ぶことに違和感を覚えてしまう。1973年といえばオイルショックの年であり、日本では節約ブームだったはず。自動車産業も、そろそろ日本車が世界を席巻しつつあり、貿易摩擦が始まろうかという頃じゃなかっただろうか。自動車レースの世界でも、「タイレル」P34に代表されるような技術的迷走期はもう少し後のことだったように思う。単に、増大した運動エネルギーに起因する肉体の損傷が可能になったことを指してテクノロジーと呼んでいるのであれば、それはこの作品がそのように書かれているからであって、本末転倒なレトリックではないかと思えるのだ。
また、ポルノ小説とは政治的な形のフィクションであり、人がお互いを…搾取するやり方について扱う小説だ、とも言っている。では、この小説において、搾取するのは、また搾取されるのは誰なのか。そのことを意識しながら読んでみたが、搾取-被搾取の関係性がいっこうに現れてこない。作中で登場人物同士は主に車内でヤリまくるわけだが、そこには快楽を得ようとする欲望が露になってはいるものの、搾取-被搾取という政治的な構造ではない。娼婦との行為も、ただのビジネスとして描かれている。
ポルノグラフィーを搾取-被搾取という文脈で定義するなら、その関係性が入れ子になっていたり、容易に逆転したり、人物間で連鎖したりするといったダイナミズムこそが必要条件ではないかと個人的には思っている(古典的|保守的な考え方かもしれないが)。男と女、ネコとタチ、受けと責めなど、状況によって呼び方は変化するものの、これらの二項対立がすなわち搾取する側とされる側であり、その関係性が実は流動的であって、視る角度によっても変化しうるという事実を詳らかにすることにエロティシズムを感じるものなのではないのかなぁ(ちょっと弱気になってきた)。
確かにこの小説では、生殖器や交通事故で負った傷の解剖学的所見や体液や粘液についての詳細な描写がされているものの、搾取-被搾取の関係性については、描かれていない。だからこの小説は、ポルノグラフィーというよりは、むしろ「エロ小説」と呼ぶべきなんじゃないかと思う。不幸にも、このエロ小説は自分のツボではなかったわけだが。これがたとえば、搾取する側=自動車、搾取される側=人間、という構造だったりすると、SF的ポルノグラフィーと呼べるとは思う。
訳者あとがきでは、この小説が生まれる経緯が述べられている。バラード自身が自動車事故に魅了されたことと、実験報告書や研究論文の文体に見いだした叙述形式が下敷きになって、この小説が書かれたらしい。これでやっと腑に落ちた感じがしたものの、後の祭り。だからと言って、これからはあとがきなり解説なりを先に読もうとは、やっぱり思わないし。