ロバート・M・パーシグ『禅とオートバイ修理技術』

禅とオートバイ修理技術〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)

禅とオートバイ修理技術〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)

禅とオートバイ修理技術〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)

禅とオートバイ修理技術〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)

この本の存在は知っていたのだが、早川文庫で再刊されたので読んでみた。
カバーの折り返しにある著者の経歴を読んでまず驚く。飛び級して15歳で大学に入学したとあるから、早熟な人だったのだろう。だが大学は落第し、朝鮮戦争に服役した後にやがて精神異常をきたし、治療のために脳に電流を流すECT療法を受けた結果、以前の記憶をなくしてしまったという。さらに、この本を著してから数年後、息子のクリスが殺害されている。
著者と息子のクリスとは、長期休暇を利用してオートバイ旅行をしていた。その旅の描写のところどころに、「シャトーカ」と呼ばれる一種の哲学講義が行われる。このシャトーカによって、著者が行き着いた哲学が解説されている。
上巻の後半くらいまでは、このシャトーカの内容はとても興味深く読めた。
人間の理解には古典的な理解とロマン的な理解とがあるという。古典的な理解とは、理性や法則によって前進するもので、例えばオートバイのメインテナンスがこれにあたる。ロマン的な理解とは、その語感のとおり、世界を印象や直観によって捉えるものだという。やはり人間も、古典的な人間とロマン的な人間に二分することができる。ロマン的な人間から見た古典的な理解様式は、「退屈で、扱いにくく、醜く見える」。逆に古典的な理解様式からロマン的な理解様式を見た場合、それは「軽薄、非理性的、一貫性がない、信頼できない…」。この2つの文化の間に亀裂が生じており、互いに歩み寄ろうとしないことが(本書が著された当時の)現代の問題だという。
ここで、「オートバイ修理技術」を「ソフトウェア開発技術」に置き換えてみると、個人的にとても合点がいった。複数の人間が共同で作業にあたる場合に衝突や軋轢が生じるというのは、まあ仕方のないことだ。だがそのような問題の根本は、エンジニアとして「デキる」「デキない」、仕事が「速い」「遅い」、といった定量的な能力の差異にあるのではなく、古典的な人間とロマン的な人間との間にある理解様式の根本的な断絶にあるのだ。古典的な人間から見た場合、ハードウェアがその技術基盤を主にブール代数電磁気学に置いており、高級言語の仕様が論理学や集合論に基づいている以上、ソフトウェアも古典的な様式で理解するしかなく、そのためにはマニュアルを読んだり言語仕様を理解する、といった努力は必然である。だが、ロマン的な人間にとっては、場当たり的にコーディングしたプログラムでも現状でちゃんと動いているのだから良いではないか、というところに落ち着いてしまうのだ。うむ、この断然は確かに深刻だ。
ここから著者は、両者の間に存在する溝を埋めるために思索を始める。また、「パイドロス」という人物について三人称で語り始めるのだが、この「パイドロス」こそが、ECT療法を受ける前の著者自身なのだ。精神病院で、著者が突然新しい自我をもって意識を回復する瞬間の描写は、実際にそれを体験した者だけが語りうるショッキングなものだった。以降、主にこのパイドロスが残した思索を著者が追いかけるという形でシャトーカは行われる。
そこで突然<<クオリティ>>という言葉が登場する。この<<クオリティ>>というものについて、パイドロスは定義不可能だと言っている。また、「分かっているのに、分からない」とも言っている。そのような<<クオリティ>>についての説明が延々と下巻の後半まで続くのだが、このあたりはかなり退屈だった。まるで、P・K・ディックの『ヴァリス』を読んでいるときのような感じで、著者本人は独自の考えをいろいろな角度から書いているのだが、読者にはさっぱり伝わらないような。結論として、<<クオリティ>>とは、一元論的な唯一のものであり、老荘思想における「道」、ギリシア哲学における「アレテー」に等しいのだという。現代の英語では(日本語でもそうだが)アレテーは「徳」と訳されるが、元々ギリシアでは単に「優れていること」という意味でしかなかったことを発見したのだ。つまり本来の意味に倫理的な価値が付加されてしまったことによる混乱を取り除けば、アレテーは著者が希求してやまなかった<<クオリティ>>と同義になると。
ここまで読んでやっと著者が言いたかったことが分かったのであるが、正直なところやや間延びしてしまっていると思う。ただし、その発見と前後して語られる、パイドロスと彼が通っていた大学の教授との闘争や、上述の悟りを得た結果パイドロスが狂気に陥る瞬間(これもディックを連想させる)などのくだりは面白かった。シャトーカ以外のストーリーの部分も、まさに父と息子のロードムービーといった趣だし、前述のような父の特殊な境遇も相まって、父子間の葛藤もありきたりの家族劇とは一線を画している。また、最後は一種のどんでん返しともいえる終わり方をする。
シャトーカの部分は、大筋は面白かった。また、オートバイ修理技術についても、古典的な人間にとっては非常に知的好奇心を刺激させられるものだったし、それについてのロマン的な人間の考え方が批判的に書かれており、そこにはちょっとしたユーモアも窺える。禅についてはあまり多くが語られることはなかったが、むしろこれでよかったように思う。西洋的な観点でもって、西洋と東洋という二元論を禅によって統一するという語り口だとすれば、きっと違和感を覚えるだろうから。
全体を通して、著者のこのような態度には好感が持てた。「ビート族」や「ヒッピー」といった言葉に対して距離を置いたり、ありがちな東洋かぶれの気配もしない。あくまでも、オートバイを駆るアウトサイダーとして自覚しているように感じた。
しかし、訳者によるあとがきで、ニューサイエンスについて言及しているのは余計ではないだろうか。時系列としてはたぶん本書→ニューサイエンスブームだろうし、哲学や科学、芸術などを統合しようとする目的意識という点では似ているかもしれないが、アプローチのベクトルが全く異なっている。前述のように著者はどの派閥にも与しない性質のようだし、このあとがきはやや牽強付会な印象があるのだが、訳者は何か政治的意図でも持っているのだろうか。と思って調べてみたら、本書を最初に単行本として刊行した「めるくまーる」という出版社が、ソレ系だったというオチ。