エリザベス・ムーン『くらやみの速さはどれくらい』

この小説の主人公は自閉症患者である。そのためか、"21世紀版『アルジャーノンに花束を』"という謳い文句が帯にも裏表紙のあらすじにも書いてある。たしかにアルジャーノンに花たばを、をおもいだしてしまうようなところもあるしほんとうにしゅじんこうのあたまはこどものようになってしまってからだのうごきもおもったとおりにならなくなるときもあるけれど、それは主人公が何らかの発達障害を抱えているという共通点があるだけで、両者のベクトルはかなり異なっていると私は思う。翻訳者も同じ小尾芙佐であるし、一人称で語られることも共通している。でもそれはそのような共通理解が読者にあることが、作者や編集者には想定済みであり、そのうえで『アルジャーノン』と同等かそれ以上の物語性を持っているという自信の表れかもしれないと思う。
彼ら自閉症者たちは、自閉症者ではない人たちを「正常(ノーマル)」と呼んでいる。さきほども書いたように、大部分は主人公の一人称で語られるが、ときどき「ノーマル」の人達を三人称で語る場合がある。そのようなときには、活字の書体が少しだけ変わる
私は実際に自閉症患者に会ったことはないが、この主人公は現代の基準でみても、比較的軽症のように思える。それはこの小説が近未来を舞台としており、その時代には幼年期においてかなりの効果をもたらす自閉症の治療法が確立されている、という設定だからだ。だが主人公が成長した後に、自閉症は胎児の段階で発見および治療が可能になっているが、その治療法はニューロン結合がある程度固定化された成人には利用できないことになっている。だから彼らは、最後の世代の自閉症者なのだ。
近未来というのはとてもあいまいな表現だけれども、一般的には十年以上百年以下というところだと私は考える。しかし「一般的」といっても、この場合はSF小説という、文学界においても今や非常に狭い領域の中でのことなので、むしろ特殊といったほうが正しいのではないかとも思う。けれどもおそらくこの表現で、じゅうぶんに意図しようとしていることが伝わると私はかなりの自信を持って考えている。それは、ノーマルな人は、文脈によってあいまいな表現から情報をくみ取るという技術を持っているからだ。それとも、読み飛ばして全く気にしないかだ。
この小説を読むと、「ノーマル」であるということは、いわゆる「空気を読める」ということとほとんど同じなのではないかと思う。空気とは、気相の状態にある分子の希薄な集合なので、読むどころか人間の目に見える事さえない。もちろんこの場合の「空気」というのはその場の雰囲気だとか居合わせた人達の総意といったようなものであることは理解している。けれども、「空気の読めない」人の存在そのものが、その場の雰囲気に影響することも間違いないのであって、そのような言明は利己的にすぎると思うし、「空気が読める」と主張するノーマルな人たちの間だけで成り立っている虚構の、したがって脆弱な幻想だと私は考える。
主人公はパターン認識力に優れており、数字、音楽、床や壁のタイルなどのパターンに過敏に反応するし、容易に記憶することもできることから、一種のサヴァン症に近いのかもしれない。学習能力もノーマルのそれを遥かに上回っているし、趣味でやっているフェンシングも得意だ。彼自身にはあまり自覚はないようだが、女性にも好かれているのだ。だがそのせいで、潜在的な犯罪者を刺激してしまい、命まで狙われてしまう。
主人公は、「くらやみは光よりも速い」という概念に取り憑かれている。くらやみとは光の不在にすぎないのだから、というような批判はもちろん的外れだ。だがノーマルな人たちは、そのように彼を諭そうとする。また、ここでいう「くらやみ」とは、何かを知ろうとすることから逃避する傾向をも意味している。つまり、知性の不在だ。「dark」に対応する「暗愚」という日本語が存在することは、幸いだ。
この時代では犯罪者は脳にチップを埋め込まれて、社会的更生を強制される。主人公が襲撃されるのと前後して、成人した自閉症患者の治療法が開発される。この治療法は、すでに存在しているニューロン結合をいったん吸収してノーマルのそれに置き換えるという、やや乱暴なものだ。彼や彼の同僚である自閉症者たちは製薬会社に務めており、会社からその治療法に参加するよう強制される。もちろんこれは違法であり倫理にももとることから、結局は彼らの意志が尊重されて、この治療法を受けるかどうかを彼ら自身が決断できるようになる。
ここにおいて、先の犯罪者を更生することと、自閉症を治療することとのアナロジーが成立する。いわゆるアイデンティティの問題だ。また、危険な犯罪者の存在が、本当に「ノーマル」なのはいったいどちらなのか、といった問題も提示する。こういった問い掛けは、ある程度予想できたことだ。だが、この小説のすばらしいところは、そのようなSF的な命題だけにとどまらない。先に書いたように『アルジャーノン』が引き合いに出されているものの、この物語そのものの強さ、明るさとくらやみ、聡明さと暗愚、生きるということ、これらの要素は『ガープの世界』を私に思い起こさせるのである。
最後の展開は、ぼくには予測できなかった。主人公が治療を受けるのはこの物語では必然といえるとぼくは思う。しかし、それまでのトーンと雰囲気が一転するエピローグは、どう解釈するべきかかなり考えたのだが、つまりこういうことではないだろうか。主人公は希望したとおりにノーマルになり、夢であった天文学者の地位を得て、宇宙に行くという夢さえも実現してしまった。だがそこにはコミュニケートする他者はいない。対話できるのは、かつて自閉症だったときの自我だけだ。ここにおいて、主人公は『ディアスポラ』のヤチマのように、全宇宙の全ての人間から無限の距離を隔てて引きこもる、究極の自閉状態になったのだと。