入不二基義『相対主義の極北』

相対主義の極北 (ちくま学芸文庫)

相対主義の極北 (ちくま学芸文庫)

極北どころか、斜め上に行っちゃって螺旋を描いて飛んでいるというイメージしか浮かばない。
この本のテーマである相対主義とは何か、という定義はひとまず置いておいて議論を進めるというのは、方法論としてはありだと思う。しかし、議論を進めつつもその定義を明らかにしないままでいるというのは、結果として如何なる結論でも導き出せる、従って空虚な修辞の連なりにしかならない。回答を出してから、はて問題は何だったかと考える、「ディープ・ソート」のようなものだ。
論理の証明に排中律が用いられることもあるが、そもそもこのように定義があやふやな上に、境界があいまいなために二元論的な考察が可能かどうかがまず疑問であるような対象に用いるには、慎重になるべきだろう。また、ある言葉を他の言葉に置き換えながらも、少しずつ焦点をずらしてトートロジーになるのを回避し論理を(見かけ上)発展させていくというやり方は、レトリックの勉強にはなりこそすれ、論理学としては成立しないだろう。
相対主義について考えを巡らすと、自己言及と還元論的な再帰による無限後退に陥るというのは、容易に想像がつく。というか、そうなったからこそ、そこから抜け出すための手がかりを求めてこのような本を読んだりもするわけだが。ガチガチの人文科学者がアキレスと亀のパラドクスや連続体仮説を自然科学の文脈から離れたところで持ち出すのは、もういい加減止めにしてほしい。これらの理論について一応の理解のある者からすると、的外れにしか見えない。
ゲーデルエッシャー、バッハ』やイーガンの小説を読んだほうが、よほど勉強になるし刺激的だ。
ところで、註に Rucker, R., Infinity and Mind というのが挙げられているが、これはルーディ・ラッカーの『無限と心』じゃないか。ラッカーを読んでいるなら、数学的な議論ももう少しまともに書いてほしい。