佐藤史生『ワン・ゼロ』

ワン・ゼロ (1) (小学館文庫)

ワン・ゼロ (1) (小学館文庫)

ワン・ゼロ (2) (小学館文庫)

ワン・ゼロ (2) (小学館文庫)

ワン・ゼロ (3) (小学館文庫)

ワン・ゼロ (3) (小学館文庫)

打天楽―ワン・ゼロ番外編 (小学館文庫)

打天楽―ワン・ゼロ番外編 (小学館文庫)

佐藤史生再読シリーズ第2弾は、もうひとつの代表作ともいえる『ワン・ゼロ』にした。
これは作中でも語られているように、善悪二元論という「陳腐な図式」の話ではない。
たしかに都祈雄たちはダーサ(魔)、摩由璃たちはディーバ(神)と呼ばれる陣営にそれぞれ分かれて対立するが、魔=悪、神=善というステレオタイプな対応はここでは否定されているのだ。なぜなら、摩由璃はアートマン(の片割れ)ではあるものの、実は神々の端末にすぎず、「憑依されている」としかいいようのない表情の場合がままある。また、ダーサもディーバも人間抜きには意味をなさない、つまり、人間の「業」や「欲」(作中ではどちらも「カルマ」とルビがふられる)といったいわゆる負の感情が集積して顕現したのがダーサであり、逆に善なるものの象徴がディーバであるということは(明言はされないが)容易に想像がつくものの、果たしてカルマを持たない存在は人間と言えるのか。「善」と「悪」の境界はどこにあるのか。これらは、作中で繰り返し提示される疑問である。都祈雄と摩由璃がアイツー社の屋上で対峙するシーンで、摩由璃はこう言う。

すべての人間が究極の平安と喜びとに満たされるまでは
わたしも幸福ではないの
幸福になれないのよ

これはすなわち一種の「業」ではないのか。そもそも、すべての人間に等しく訪れる平安、そして喜びというものが可能なのか。ある人にとっての幸福はまた別の人にとっての不幸ではないのか。この発言の背後にあるのは、キリスト教徒でもない人々に対して「今日はクリスマスなんだよ」と平然と言ってのけるのと同じレベルの傲慢さだ。ここに至って、ダーサとディーバがそれぞれの拠り所としている、人間の「ニュートラル」な状態からの偏向は、実は倫理的な善悪で測れるものではなく、ただその偏向のベクトルが異なるだけで絶対値は同じだということが仄めかされる(いや、実数的な正・負の関係とすると、善悪という概念が想起されてしまうので、ここでは複素平面上のベクトルのようなものを想像するほうがよさそうだ)。
一方で、前述のようにカルマの権化とされるダーサではあるが、自己保存の欲求に従って他者を犠牲にして生きることこそ人間の本質である、というのが彼らの主張であり、これには頷ける。まとめると、人間はカルマなしに生きていくことはできないと同時に、他者を慮る社会性も必要なのだ。

今回再読してみて、これが『幼年期の終わり』や『ニューロマンサー』に匹敵するSF作品であるという確信は、より強固なものとなった。これが、いち(少女)漫画雑誌に連載されていたとは、当時リアルタイムで連載を読んでいた私ですら、今思うと奇跡的な出来事だったのではないかと思えるのだ。

以下、前から気になっていることをいくつか。
孔雀明王に対面して唱えよと都祈雄の祖父が彼に伝えた真言は「オンマユキラティソワカ」だが、摩由璃が発音したのは「オンマユキラティソワカ」である。この2つが明らかに違うのは何故だろうとずっと思っていたのだが、今回思いついたのは、摩由璃は自分の名前を真言に含めることによって、恣意的にその効果を歪めたのではないか、ということだった。しかし、今ネットで調べた限りでは「オンマユラキランデイソワカ」というのが正しいようなので、これは摩由璃が発音したものに近く、むしろ都祈雄の祖父には誤って伝わっていた、という解釈が正解なのかもしれない(したがって、彼と彼の祖先達は、孔雀明王の光背の声明効果に気づくことがなかった)。
マニアックが「見張り・天敵プログラム」によって機能不全に陥るところ。天敵によってマニアックの内部に「虚無」が生じたせいなのだが、ルシャナは自らの髪の毛(エネルギーでできている)を使って修復する。ハードウェアの障害ではないので、これはソフトウェア的な問題であり、メモリの一部がnullで埋められたとかそういうことなのだろうと思う。しかし「充てんする」といっても、実際にメモリにはどのようなデータを書き込めばよいのだろうかというのが謎だった。おそらく、ルシャナの髪の毛を構成するエネルギーとは、「幻力」なのだろう。したがって、意味論的に「幻力」として解釈されるデータであれば、マニアックのダーサたる部分の機能は復活する、という好意的な解釈をすることにした。
作中でオーウェルの『一九八四年』についての言及がある。マニアック曰く、ビッグブラザーは「人間の頭の中に直接端子をうめて頭の中身を盗聴した」とあるが、『一九八四年』では「党」がテレスクリーンや隠しマイクを用いていたに過ぎず、そのような高度なテクノロジーは出てこない。これは作者の勘違いだろうか。

あと、どうでもいいけど、この作品が世に出てからメジャーになった言葉が結構ある。「マニアック」、「ディーバ」、造語だけれども「メディック」などは、例の宗教団体がパクったりしていた。コンピュータ+密教+ヒンズー教という図式からしてモロにそうだけど。Nirvanaが「ニルヴァーナ」と発音されるきっかけもこの作品かもしれない。スーファミやPCのゲーム「ディーヴァ」は、企画者は間違いなくこれを読んでいるだろうというくらい、似たような用語が頻出する。まあ、それだけ当時の「マニアック」な人達への影響があったということなのだろう。

最後に、3巻には森脇真末味によるエッセイが、続編の『打天楽』には佐藤史生自身によるエッセイがある。今読むとどちらも泣けてしまう。