松野莉奈

およそ170cmという長身と柔軟な肢体に恵まれ、元来舞踊の才があったものかまるでお手本のように正確な動作と指先まで神経のゆきとどく細やかさを併せもち、豊かな黒髪の流れや衣装のドレープ感をも味方につけその所作を引き立てる。
ステージからどれほど離れている客席にいてもすぐにそれとわかる白皙とその凛とした佇まいとに徐々に惹かれるようになり、私立恵比寿中学における私の最初の推しが転校した後しばらく不在であったその位置に、気がつけば松野莉奈は居たのであった。


昼食をとり終わったそのすぐ後で開いた Twitter から目に飛び込んできた「松野莉奈」と「急死」という二つの単語。これらの連関にまず違和感をおぼえ私の中の非合理性が一斉にそれらを否定するが、これはかなりの確度で事実なのであろうという直感もまた不合理ながらあったのである。
職場に戻りまず携帯電話の電源を切り、仕事に使っているマシンの常にアンテナを表示しているブラウザも読書関係のサイトに切り替えた。
情報を遮断することでなんとか普段どおり仕事を終え、帰宅してまず目に飛び込んできたりななんの写真パネルを裏返しにした。ちょうど配達されていた HR という雑誌の表紙にも名前が載っており、これも伏せて目に入らないようにした。とにかくエビ中やりななんの写真や文字が視界に入るのが辛い。


アイドル界でも屈指の歌唱力をもつメンバーが半数の4人もいるエビ中で、りななんは決して歌は上手くなかった。いやむしろ下手だった。
でもエビ中が8人になってからはりななんの歌はどんどん上手くなっていった。かつては自分のパートでも自信なさげに歌っているように見えたが、とにかく声が張るようになった。それと同期するかのように、歌っているときの表情もどんどん豊かになっていき、まるで彼女の内なる女優としての人格が、曲中の登場人物を演じているかのようだった。


グループ内での人気もそれほど高いほうではなかった。エビ中の人気のツートップ(最近ではスリートップか)のファンは特に熱量が高いこともあるが、りななんのファンは私も含めて、彼女に似たものか恥ずかしがり屋であまり声を出さないという印象がある。それでも内心ではとても熱くりななんを応援していたのである。
2016年7月19日に品川ステラボールで行われた生誕ソロライブ「rinanan RADIO SHOW!!」。歌が得意ではなくバラエティ番組などでも積極的に前に出てくる性質ではない松野莉奈の初めてのソロライブ。このときは観客のひとりとして期待よりも不安のほうが大きかった。ライブが始まるやいなやステージに独り立つりななんからいつも以上の緊張感がひしひしと伝わってきたし、せっかく用意した「RADIO SHOW」というコンセプトに基づいた演出や進行をすっとばしてしまったりもした。昔の彼女なら泣き出してしまったかもしれない。
でもその日は、りななんと観客とが、綿密に計算され構成されたプロフェッショナルなステージとはまた違う、名状しがたい幸福な空間を醸していた。演者とファンのなれ合いというならそれでもよいが、彼女にしか成し得ない場であったことは確かだ。レキシの「きらきら武士」を歌ってくれたのもとても嬉しかった。
またつい最近の1月28日にニコ生で放送された「クイズ!コメントでアンサー」は特に記憶に新しいが、ニコニコ的な文化には否定的な私でさえもがついコメントを何度も書き込んでしまうくらい、彼女の魅力に引き込まれた。最後の問題では我らがりななん推しが早々に正解を察してコメントを連発したところをりななんが目に留めたが、しばし逡巡しもどかしい数瞬の後に閃きがあったのであろう、回答ボタンを押して正解し、見事優勝をしたのであった。
私の勝手な思い込みかも知れないが、この瞬間には彼女とファンの間に信頼という絆が生まれたのではないか。


私は特にアイドルだけが好きというわけではないので、エビ中に関してももっぱらCDを買いたまにライブに足を運ぶというほどのことしかしてこなかった。
ところが二年くらい前からハイタッチ会や握手会などいわゆる接触イベントや、映画の舞台挨拶などにも参加するようになった。もはや曲が良いとかライフスタイルに共感できるというようなそれまでの後付けの言い訳など不要で、とにかく可能な現場なら何であれ参加するようになった。
去年はアルバム『穴空』の2ショット撮影会で初めてりななんと一対一で相対したが、そのときの真正面からじっと見つめてくる彼女の目が印象的だった。
つい三週間ほど前には写真集のお渡し会で二言三言会話することができたのだが、このときは思いのほか時間に余裕があって剥がしが緩かったのに、前もって用意しておいた会話のねたがすぐに尽きてしまった。結局これがりななんとの最後の会話になってしまった。
二日前にはりななんの Instagram への投稿に初めてコメントした。これからは積極的にコメントしていこうと思っていた矢先だった。


松野莉奈は私にとって詩神(ムーサ)であった。詩人でもないのにおこがましいというなら、創造力の源と言い換えてもいい。
音楽、文学、漫画、芸術、洋服、味覚、など、私が生きていく上で保ちたい美や知の基準は自分の中で厳密に定義されているが、彼女はその基準を越境し私が想像だにしなかった世界を見せてくれた。形として後に残らない刹那的な一期一会の歌やダンスであっても。
そして、死などという言葉からは最も遠い存在であるはずだった。


たぶん松野莉奈はその美貌と性格とで、アイドルやモデルなどという修羅の道を歩まなくても、人としてじゅうぶん幸福な人生を歩めたはずなのだ。
たとえ短い期間であったとはいえ、りななんの世界を見せてくれたことにありがとうと言おう。そして、ずっと好きです。