ウィリアム・ギブスン+ブルース・スターリング『ディファレンス・エンジン』

ディファレンス・エンジン〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

ディファレンス・エンジン〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

ディファレンス・エンジン〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)

ディファレンス・エンジン〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)

角川書店のハードカバー、文庫版に続いて、早川文庫から再版。角川の文庫版は人に貸したまま音信不通になってしまったが(音信不通になる前に、本は返しましょう)、3種類全て手にしていたことになる。
角川書店のハードカバー版には後に短編集が邦訳されることになるアイリーン・ガンによる「差分辞典」が、文庫版には巽孝之による感動的な名文「黒丸尚さんのこと――ひとつの付記――」が収録されていたが、今回の早川文庫版では「差分辞典」は増補版となり、加えて上巻には伊藤計劃円城塔による解説も収録されている。よって、この早川文庫版が現状では最強。
上下巻の上巻に解説があるというのは珍しいことだが、この解説が素晴らしい。円城塔は『Self-Reference ENGINE』を読んだだけだし伊藤計劃に至っては作品を読んですらいないが、『ディファレンス・エンジン』と互いにリファレンスし合いながらも自閉しない構造を持った、一個の短編作品として成立している。この二人の組み合わせは、ギブスン+スターリングのそれに匹敵するかもしれない。
前述のように角川文庫版も持っていたのだが、どうやら本編は読んではいなかったようだ。なので、全編通して読むのは2回目ということになる。だがこの20年近い時間の経過の間に、おれ自身の知識もそれなりに補強されていたようで、特にこの作品のキモでもある不完全性定理についての理解はたいへん役に立った。また、時代が全く下るとはいえイギリス人の暮らしぶりや地理、小ネタだがメタファーとして重要な役割を持つバージェス動物群に関する知識など、最初の単行本では一体何を読んでいたのかと思ってしまった。ロンドンの科学博物館で見たバベッジの「機関」の実物は、今でも忘れられない(出力用にIBM製のThinkPadが併置されていたことも)。
この小説が、サイバーパンクの二大巨頭による歴史改変ものであり、スチームパンクのひとつの到達点であるということに異論はない。だがひとつ見落とされている点があるように思う。それは、知性のありようのひとつのバリエーションを提示しているということだ。ゲーデル的な自己言及を、無限ループに陥ることなしに演算する能力が知性に不可欠なひとつの要素だとすると、それは生化学的なプロセスや電磁気学的プロセスである必要は決してなく、蒸気機関によって駆動されるメカメカしい機械装置の内部状態でも良い、ということだ。これこそが、「モーダス」が最後に提示したビジョンではないかと思う。
「差分辞典」だが、本編を読みながら適宜これを参照するととても面白い。解説にもあるが、史実をアレンジする方法が実によく練られていることがよくわかる。作中ではジョン・キーツは夭折した詩人ではなく映画技師として名を馳せたし、「キャプテン・スウィング」の由来も面白い。ハルキゲニアの復元が改定後の『ワンダフル・ライフ』と同様の解釈になっているが、これは「増補版」にあたって修正したところなのかもしれない。