グレッグ・イーガン『宇宙消失』

宇宙消失 (創元SF文庫)

宇宙消失 (創元SF文庫)

ということで、9年ぶりに再読してみた。思えば、イーガンとの出会いはこの小説だった。
中盤くらいまではだいたい覚えていたけど、後半はさっぱり。まあ、アイディア勝負の長編なので、結末にはあまり重きが置かれていないというか、大団円を期待するような話でもないし。それに、最後のアレの描写はちょっと陳腐かもしれない。
とはいっても、それまでのSFとは一線を画していたのは明らか。序盤から繰り返し出てくるセキュリティに関する病的なほどの気の配りようは、「ゴルゴメソッド」のようなことが本気で言われている現在から見ると、逆説的で面白い。脳波を測定されることで何を考えているかが傍受されてしまう、などということまでを気にする作家すら稀なところに、その問題について一応の解決策をさらりと言ってのけている。
何より、量子力学の問題をここまで突き詰めて考え、今までにない作風でもってヴィジョンを提示したというのはやはり衝撃的だったし、今読んでもじゅうぶんインパクトがある。改めて読んでみてわかったが、この小説における量子力学の扱いはコペンハーゲン解釈多世界解釈を折衷したようなものだ。もちろんこれは小説だから、まず物語ありきで理論のほうを恣意的に登場人物たちに説明させているわけで、作者の都合でいずれかの理論のいいとこ取りをしてワイドスクリーン・バロック的な架空理論の伽藍を構築している。その虚実のすき間に垣間見える、「ウソ」の部分がとても面白い。
それにしても、この作品に限らずイーガン作品全般に対する、科学理論だけが先行して「人間が描けてない」というような批判は、全くの的外れだ。あらゆる哲学よりもずっと抽象度の高いより根源的な次元で、人間存在の本質についての議論をしているというのに。イーガン作品に一貫しているテーマはアイデンティティであるということもよく言われるが、さらに言えば自由意志の問題も含んでいると思う(両者は同じものを指しているのかもしれないが)。作中で主人公は波動関数の収縮を阻害しさらに自分に有利な選択肢を選ぶことができるという設定だが、とある場所に侵入する際に、監視人たちは主人公の存在には気がつかない(そういう可能性を主人公が選択したから)。そのとき、監視人たちの自由意志はどこにあるのか。この考えを敷衍した場合、そもそも全ての人間にとって自由意志などというものがわずかでも存在するのか、という本質的に証明不可能な命題を突きつけられているような気がした。
ところで、作中に登場する「モッド」については、どうも勘違いをしていたようで、サイバーパンク的な「脳と直接インターフェイスするハードウェア」のようなものだと記憶していた。だが実際のところ、これはニューロンを再結線することにより、言うなれば脳の一部を専用のハードウェアにしてしまうことなのであった。フォン・ノイマンというモッドは、デジタルコンピュータと同様の動作をするモッドなのだが、このへんのひねくれ具合がとても面白い。