ライク・E・スプアー『グランド・セントラル・アリーナ』

グランド・セントラル・アリーナ (上) (ハヤカワ文庫SF)

グランド・セントラル・アリーナ (上) (ハヤカワ文庫SF)

グランド・セントラル・アリーナ (下) (ハヤカワ文庫SF)

グランド・セントラル・アリーナ (下) (ハヤカワ文庫SF)

オビ曰く、

実験船が光速を超えた瞬間に
転移した先は
壮大無比の闘技場だった!

女船長ひきいる7人の科学者が
立ち向かうは
強大な力を持つ異星種族!

ですって。このあらすじを読んでしまっては、<知性化シリーズ>を思い浮かべてしまうのはいたしかたないところだろう。しかも、このカバー絵がなんとも、ねえ。だからもう読む前からこれは地雷だと決めつけていたので、内容に関しては全く期待していなかった。だから、どのくらいトンデモない小説だろうか、突っ込みどころはたくさんあるだろうか、というきわめて不純な動機で読んでみた。
ところが、だ。意外に面白いじゃないか。まず、超光速航法がとてもユニーク。この物語世界は相対性理論の制約を受けた、現実の我々の宇宙と同じ構造ではある。しかし時空には普遍的な座標系が存在していて、そこからは宇宙を「見わたせる」ことができるという。つまり相対性原理を否定していることになって実は矛盾しているのだけど、そこは気にしないこと。面白いのは、「コンテキストパラメーター行列」なるものでこの宇宙を正確に記述することができ、この行列から、遠く離れた二点間を「調和」できるという奇想。
この説明だけだとなんのこっちゃと思われるだろうが、おれの理解ではこう。宇宙を行列で記述することができるならば、行列の演算を用いて別な行列に写像できる可能性がある。例えば地球近傍を表す行列を、目的地を表す行列に変換する演算が存在するかもしれない。そしてその演算は、前述の普遍的な座標系にいったん写像した後に、目的地の行列に再度写像するというような数学的方便を用いることで、必ず計算可能になる、というような理屈こそが、この小説に出てくる超光速航法のキモなんじゃないだろうか。つまり、非線形なモデルを一旦別なモデルに置き換えることによって線形の計算で済むようにするという、Support Vector MachineやBackpropagationのようなものではないのか、と。そのような数学的トリックを実在の宇宙にあてはめちゃうところがとても面白い。もちろんこの解釈が必ずしも正解であるとは限らないのだが、そこに独特なSF的想像力を見出したのは確か。
他にも、AIの賢さにも階級があったり、「アリーナ」に到着した瞬間にそれらAIが全く機能しなくなったりする。AIが機能しなくなるというのは無人探査機による調査の結果で予めわかっていたので、その問題に対応するために有人探査機では、AIを用いたものと、20〜21世紀のテクノロジーのようにそれほどスマートではないハードウェアとで、システムを二重化するというエピソードも面白かった。
ということで、序盤で結構ツボにはまってしまったので、その勢いで最後まで読めた。まあ欠点はいろいろとあるし、ネットで見る限り評価も決して高くはない。でもそれはこの小説をスペース・オペラだとかラノベっぽいといった先入観に囚われて読んでしまっているからじゃないのかな。異星人と普通に会話が通じてしまったり同じ環境に同居していたり(生息できる大気の成分が異なる場合には、その異星人の周囲だけに理想的な成分の大気が存在するらしい)といった都合のいい設定はほとんどすべて、アリーナを作った未知の存在が遺した魔法に近いテクノロジーのたまものである、という以上の説明はないけれど、それを言えば<知性化シリーズ>でも<スター・トレック>でも同じこと。
たぶん作者が意図した見どころはアリーナでの戦闘や異星人間の駆け引きなのだろうけれど、そういったエピソードには正直あまり魅力を感じなかった。ただ、この手のスペース・オペラの伝統として、異星人に対する地球人の意外な優位性をどこに持たせるか、というのがあるわけだが(本当か?)、この小説では地球人の、わずかな可能性に賭けるという無謀さがそれで、この点もユニーク。
作者はE・E・スミスをとてもリスペクトしているそうで、この小説はあくまでもスペース・オペラとして書かれているようだけれども、むしろこの作者は、上述したような奇想を活かしたワイドスクリーン・バロックのような作風のほうが合うんじゃないだろうか。続編の構想があるそうだけど、もし続編が出るなら読んでみたい。