ピーター・ワッツ『ブラインドサイト』

ブラインドサイト〈上〉 (創元SF文庫)

ブラインドサイト〈上〉 (創元SF文庫)

ブラインドサイト〈下〉 (創元SF文庫)

ブラインドサイト〈下〉 (創元SF文庫)

突如地球に襲来した65535個の異星からの探査機。これを調査するために出発した宇宙船の乗組員は、吸血鬼、四重人格者、感覚器官を機械化した者、平和主義者の軍人、そして脳の半球を切除した「統合者」である主人公。
まず吸血鬼というところで引っかかるが、作中ではちゃんとその起源や生物学的な理論づけがなされていて感心した。つまりこの小説における吸血鬼とは、50万年前にホモ・サピエンスと並行して進化した霊長類の種であり、霊長類の脳に存在する必須タンパク質を自ら生成することができないので、他の霊長類(つまり人類)を捕食して摂取しなければならない。そして、人類がユークリッド幾何学を編み出して直角で構成される建築物などを造るようになる前に分化したので、それまで自然界には存在しなかった直角に対する恐怖症を持っている。これが吸血鬼が十字架に弱いことの理由。その代わり吸血鬼は、五感からの入力を認識する過程が人類とは異なっており、だまし絵のような二義図形を単一の様相として同時に認識できる。
じゃあニンニクに弱いのは、鏡に映らないのはなぜ?という疑問は残るが、まあそこは目をつぶって、ここまで理屈づけがされていれば充分だろう。他の登場人物や主人公の設定も、本書のメインテーマである「意識」についての考察がいろいろな角度からできるよう、綿密に練られたものであることが読み進めるにつれてわかってくる。ところどころに挿入される主人公の家族や恋人に関する過去のエピソードは、冗長のような気もするけど、物語が単調にならないようにという配慮も兼ねているのかもしれない。あと、コミュニケーションの不可能性を呈示することと。
メインのストーリーだけに着目するとファーストコンタクトものということになるが、その異星人(?)を捕獲してまずやらなければならないのはやはりコミュニケーションの手段を確立することだ。異星船との通信はわりとすんなりと実現する。これはおそらく人類が何十年も前から宇宙の全方位に向けて垂れ流していた電波に含まれる情報を異星人がとっくに解析していたからだろう。だがこのやりとりから、相手はいわゆる「中国語の部屋」なのではないか、という疑問が生じる。
読み終えてみると、結局はこの「中国語の部屋」が、本書が提起している問題のほとんどを占めているのではないかと思えてくる。つまり、知性と意識との間にはほとんど、あるいは全く関連などなく、「意識」を有していることで生存確率が高まるわけでも、子孫を残すために有利な条件となるわけでもなく、また「意識」は知的生命体にとって必要な要素なのか。そもそも我々が疑いもなく「意識」として意識しているものは本当に実在するのかという疑問を投げかけること。
テッド・チャンは解説でこの見解に疑問を呈しており、「意識ある知性」は「仲間内での競合のため」に進化したのだという。これはもっともな主張のように思えるけれども、この場合は他者と「共感」する能力が高いほど群れの中で生き延びて子孫を残す確率が高くなる、ということを言っているだけのようにみえる。「共感」というのは自分の思考様式(「意識」とは限らない)を他者にあてはめてシミュレートする能力のことを指しているのだと思っているが、それだけならアルゴリズム化できるはず。それこそ作中で言及されているようにゲーデル的な無限ループに陥る可能性はあるが。
「共感」といえば、本作では相対主義について直接的に言及することを巧妙に避けているように思える。また、「ゾンビ」という単語は出てくるが、「哲学的ゾンビ」は出てこない。このことが、物語を無駄に複雑にすることを嫌ったためなのか、それともそこにはあえて言及せずにおいて、自分で考えよというメッセージなのかはわからないけれども。
ところで、この作品の一番の肝は異星船が自らを「ロールシャッハ」と名乗るところではないかと思ったのだが、どうだろう。「中国語の部屋」にすぎないかもしれない存在が、それを見る者の「意識」や「知性」によっていかようにも変化する心理テストあるいは心理学者を名乗る、ということが含意するものこそが「意識」の存在価値について疑問を投げ掛けることの暗喩になっているのではないか。
この作品は、ぶっちゃけストーリーはどうでもよくて、今まで信じて疑われることのなかった「意識」というものの存在価値に根本的な疑問をぶつけることに価値がある。ここまで露骨な、ある意味「空気を読まない」テーマは、グレッグ・イーガンテッド・チャンも仄めかしはしたかもしれないけれども、正面切って論じようとはしていなかったと思う。その点だけを挙げても、この小説を読む価値は充分にあった。
唯一不満なのは、これは出版社に対する苦言だが、なぜ二分冊にしたのかということ。上下合わせても600ページに満たないし、一冊にまとまっていたほうが、作者の粘着気質(優れた作家には必須の資質だと思っているのでこれは褒め言葉)が窺える「参考文献」やチャンの解説もまとめて読めるのに。この内容だと、ファーストコンタクトものという惹句にミスリードされて、上巻で投げ出してしまう読者もいるんじゃないのかな。
あと、やはりこの訳者の翻訳はどうにも馴染めない。主人公が脳の半球と引き換えに得た統合者としての能力は、他者の思考を身振りや表情といった表層から読めるということなのだと思うけど、その他者の思考や心理状態を指して「トポロジー」と訳してしまうのはどうだろう。原文でも "topology" となっているのかもしれないけれども、「トポロジー」と聞けば数学の一分野である「位相幾何学」を想起するのは至極まっとうなことであり、これをヒトの思考や心理状態と結びつけるのは違和感がある。単に「位相」あるいは「様相」とでも訳したほうがよかったんじゃないか。翻訳だからそれこそ入れ子になった「中国語の部屋」なわけで、そういうギャグでもあるまいし。