グレッグ・イーガン『白熱光』

それはもう、一字一句漏らさずに舐めるように1ヶ月以上かけて読んだ。それでも誤読しちゃうんだなあ。訳者あとがきを読んでびっくりだ。


この小説は2つの視点からの物語が交互に語られている。奇数章は遠未来の人類の子孫を含む銀河円盤で栄える「融合世界」と呼ばれる文明圏の出身者たちの物語、偶数章はやはり遠未来(と思われる)の銀河の中心部における、SFの基準では飛び抜けて異質とはいえない程度に奇妙な生命圏の物語で、この銀河中心部は融合世界側からは「孤高世界」と呼ばれている。
融合世界では、意識を符号化しガンマ線を搬送波として用いて銀河円盤に張り巡らされたノード間をリレー方式で転送できる。だから融合世界の中ならばどこへでも好きなところへ行けるが、ここはイーガンらしく光速の壁を破ることはできないので、千年紀単位で時間が経過するのが当たり前になっている。ノード間で予め量子暗号鍵のペアを保持しなければならないので、暗号鍵が不足している場合にはやはり数千年単位で待たされる、といった小ネタも。
融合世界では寿命などというものはとっくに意味を失くしているので、住人たちはとにかく気が長いのだ。そのかわり、融合世界のどんな辺鄙な星系でも隅々まで調べ尽くしてしまっているので、すっかり退屈しているらしい。
一方の孤高世界は、少なくとも百五十万年間は融合世界との疎通がない。しかし件のガンマ線通信はリレーしてくれるようだ。ただし、暗号化はしてくれないので情報を改竄されるかもしれないというリスクがあるが、これは融合世界からはどうにもできない。
融合世界では星系間クラスのパンスペルミア説が常識となっているようで、融合世界を構成する有機生命体種族はごく少数の起源から枝分かれしたらしい。そんなところへ、孤高世界からやってきたと思われる岩石の破片に未知のDNAが発見されたという報せがもたらされる。
融合世界の住人であるラケシュとパランザムは、そのDNAの起源を求めて孤高世界を目指す。わずかな手がかりを元に次に目指すべき星系を発見したり、観測するために直径一千万キロメートルに及ぶ光学顕微鏡を作ったりするというくだりは、一種のロードムービーのよう(小説だとどう表現すればいいのだろう。訳者あとがきでは「オデッセイ」と表現されていたけれど)。


奇数章はいつものイーガンというか、短編「グローリー」に連なる世界観で、前述のようにロードムービー的な展開に謎解きの要素が組み合わさり、さらに細部まで楽しめる作りになっている。読み始めはこの奇数章がメインなのかと思ったが、偶数章のほうが内容もみっしりで読みごたえもある。
偶数章に出てくる生物は甲殻類を思わせる姿形をしており、<スプリンター>と呼ばれる小惑星らしき場所の内部に棲んでいる。彼らは言語や文字を使って互いに意志の疎通を行い、食料となる菌類や家畜を育てて自給自足の生活をしているようで、科学やテクノロジーといったいわゆる「文明的」なレベルにはまだ達していないようだ。
<スプリンター>の内部における「重さ」の様相は地球の表面などとはことなっているらしく、無重量となる線「ヌル線」が存在しており、<スプリンター>の断面図によると重さのベクトルは内部に向く部分と外部を向く部分とに分かれているようだ。この図によるとそのベクトルはあたかも点電荷が2つある場合の電気力線のように見えて「んん??」となるのだけれど、それならばベクトルの大きさはどちらの方向でも同じはずだし、作中では「重さ」と明記されている。その疑問を頭の中のメモに貼っておいて読み進めると、ほどなくこれは<スプリンター>の住人にとっては「重さ」以外の何ものでもないことがわかってくる。ということは、この<スプリンター>はある特殊な環境に位置しているに違いない。そしてそれは太陽系などとはほど遠い過酷な環境であるはずで……と、まだ序盤なのにもうワクワクが止まらない。
<スプリンター>において、この「重さ」の働き方について合理的な説明を見いだそうという試みをしている、彼らの尺度では奇妙であると思われる人物が登場する。彼は<スプリンター>の各地点における重さを測定し、またヌル線を周回する物体の動きを観察することで、その法則を見つけようとしていた。つまり、観測によって得られたデータを元に仮定のモデルを組み立て、実験によってそれを実証してモデルをより現実に近づけるという、これは科学的思考の萌芽なわけだ。
彼と、偶数章の主人公でもあるパートナーとは、次々と新たな事実を発見し、観測の精度を上げるべく装置を組み立てたり、観測や計算を行う仲間を「リクルート」していく。観測チームは、ヌル線の周囲を物体が回る周期を正確に測定するために、回転する物体でもってある軸線に沿った運動を安定させるという装置を作り出す。これはジャイロじゃないか。また計算チームは、測定して得られたデータに対して毎回同じ計算を一から実行するのではなく、計算の一連の手続きのみを形式化し、データをそれに当てはめてて計算することで最終的な数値を得るという手法を用いるようになる。これは関数あるいは代数だろう。また、ヌル線を周回する物体が描く線を微小な単位にまで分割してその物体の動きを予測したり、やはり微小な単位の長さや体積を、定められた法則に従って加算することで総体を求めるという、これは微積分の発見だ。


このように、種族を維持するための目先の作業を半ば機械的にこなすだけのいち農夫にすぎなかった彼らが、科学的思考とテクノロジーという2つの大きな武器をドラスティックに発展させて、自分たちが住んでいる世界の仕組みを解き明かそうと奮闘を始める。SF読みならば、また科学に美を見いだす者ならば、ここで感動せずにはいられない。だがその一方で、この<スプリンター>の住人たちの飲み込みの早さや物分かりの良さに対して、物語としてご都合主義的なのではないかという疑問も湧く。けれどその疑問もこの壮大なスケールの小説の一部。
<スプリンター>の住人たちがたどる思考は、まさに自分が中学〜高校で学習した数学と物理の関係を理解する過程と完全に一致しており、そういう意味でも感動した。例えば机に載せた物体はなぜ落下しないのか。物体には常に重力が働いているが、それを打ち消す力を導入することで説明ができる。そしてそのような力は観測者の立場によって変化する。特に観測者や非観測物が非常に速い速度で運動していたり、高重力下という環境においては。<スプリンター>の住人たちは、たった一世代でニュートン力学から(一般)相対性理論へのブレークスルーをなしとげた。だが彼らが観測をより正確に行い理論を現実に近づけるにつれ、<スプリンター>に危機が迫っていることがわかってくる……。


ここまではまあ理系の高校を出ていれば理解できることなので、文章による説明を頭の中に画として描くのに難儀したものの、時間さえかければわかる。だけど、さすがにアインシュタイン方程式のカー解とそれが含意するもの、この小説の世界に与える影響などを理解するには参考書が必要だった。そこで読み終えてから、イーガン作品といえばこの方、板倉さんのページのお世話になった。http://d.hatena.ne.jp/ita/00000101
できれば自力で本作を読んだあとで、このページを読んで理解を深めるなり修正するなりしたほうが楽しめる。ただし、科学的な細部をほとんど理解していなくても、なんとなく「スゴイことが起きている」ことが感じられるのがイーガン作品の面白さ。だから、「難しかった」で済ませちゃうようなことはもうやめましょう。


最後にネタバレ。なぜかこの小説はロバート・L・フォワード『竜の卵』(実は未読)と比べられることが多いようなのだけど、高重力下という特殊な環境とファースト・コンタクトという点が似ているだけだと思う。この『白熱光』は中性子星が舞台のときもあるけれども、<スプリンター>が周回しているのはブラックホールだし、融合世界と孤高世界のファースト・コンタクトものと捉えてしまうと、より大きな枠組みを見逃してしまうんじゃないか。むしろこれは、ブルース・スターリングの「巣」のように、知性のありようについての洞察を齎してくれる、それも空間的・時間的に壮大なスケールの物語であり、また巧妙なミステリでもある、と考えたほうがより楽しめると思う。