ジョージ・オーウェル『一九八四年[新訳版]』

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

訳が変わってトールサイズになっただけならスルーしてもいかなと思っていたのだけど、ピンチョンが解説を書いていると聞いて、四半世紀ぶりに読んでみた。
そのピンチョンの解説で、感じたことはだいたい書かれてはいる。宗教に関する部分には異論があるけれど。あと、言われてみればたしかに「ニュースピークの諸原理」と「2+2」の答えが空白だった旧訳からは、ある種の希望が読み取れるかもしれない。しかし、もしそうだとしても、その希望が叶えられるには少なくとも2050年まで待たなければならないわけで、これはこの小説が書かれた時代から100年後であることを考えると、むしろ失望こそが深まりはしないか。
ところで、ここに描かれているディストピア社会は、今現在のこの世界と何が違うというのだろう?私が考えている「自由」と、党が言うところの「自由」とは、何が異なるのだろう?「自由であること」を担保する何かが存在するわけでは決してないし、行動にも思考にも、物理学的・数学的に証明されている事実も含めあらゆる意味において、何らかの制約が必ずある。字義からして、わずかでも制約があるならばそれは「自由」とは呼ばない(倫理や社会規範といったことはとりあえずいったん置いておく)。そもそも、ア・プリオリに存在するかのように見える「自由」という抽象概念が、戦後日本の教育を受けた者が心に描く概念と、この小説における「党」の支配下にある者が二重思考の基に捉えるそれのいずれが正しいのかなどという議論は、唯我論を持ち出すまでもなく意味をなさない。
たぶん、文明が誕生して以来、社会というものは社会を存続させることこそが目的であり(「……迫害の目的は迫害、拷問の目的は拷問、権力の目的は権力、それ以外に何がある。……」)、その中で人間は本質的に自由ではあり得ないのだ。というのは一種のトートロジーだけれども、それ以外の結論はない。
「ぼくたちはもう死んでいる」